江戸の生活と食生活

食と生活

誤認識されている江戸時代

昭和30年代になっても

日本のトイレは
まだ汲み取り式で

ゴミ箱は木造の為
悪臭を放っていた

電気
水道
ガス(プロパンガス)
は完備していたが

そのようなものが
江戸時代には存在しないし

ビニール袋等
匂いを封じ込めるものは無く

リサイクルという言葉や
考え方も無かった

それでもなお
江戸時代が豊かで清潔で
安全で人情に溢れていた
と認識している人が存在する

時代劇などを見てる限りでは
知り得ない

でも
どう考えても
江戸時代は夢の楽園では有り得ない

そんな内容の本の話です

時代背景

江戸と同時期の
清(中国)
フランス(パリ)を比較すると

当時の
中国やフランスの人々は
路上や溝に糞尿を捨てていた

対して

江戸では

ある程度の
インフラが整っていて

専門の業者が扱っていて
農村、農家で下肥えとして利用していた為

道端に排泄物が捨てられている様な事は
少なかった模様

同時期の
お洒落なフランスでは

生活圏の悪臭を緩和する為に香水

家庭から道路に投げ捨てられた
糞尿を避けて歩く為に
ハイヒールが誕生している

 

江戸時代の人々の働き方

現在は
美化された映像しか
目にしなくなってきているが

理不尽な身分制
社会制度
主従制度
生活水準の低さ

が江戸時代には存在していて

今ではブラックと言われている事が
日常的で

抵抗する事が悪となっていた

丁稚奉公

当時の子供は
11~12歳で親元を離れて
住み込みの奉公(就職)している
(24時間体制の仕事)

最低限の

衣食住と3食の食事
小遣い程度の給与

契約期間は通常10年

職人が一人前になるには
10年の修行が必要ってのは
この頃にできた常識のようだ

休日は年に2回のみで

1月に1度
7月に1度

日帰りで親元に戻る程度の休日だった

大店への奉公はというと
越後屋(現在の三越デパート)の場合
9年目にやっと休みが貰えたとの事

その代わり
初めての休みは50日程あった様で

最低限の衣食住は提供されたが
約3年間は無給で働いていた

近年問題になっている
アフリカや東南アジア(発展途上国)の
児童労働の問題以上の事が当たり前に
行われていた

多くの場合その理由は
当時の貧しさや
親の負担を減らす為であった

女の子の場合は子守等

男の子の場合は酒屋等の小売業などで

近年の様に
経営者と従業員では無く

主従関係であり

当時の決まり事として
「従」が「主」に対して逆らう事は
絶対に許されない事だった

慣れない環境
日々の緊張
粗末な食事による栄養不良

集団生活による
伝染病や感染症
脚気etc. により

働き始めて2年目程度で
(今でいう中学生程度の若者が)
命を落としていた

その様な状況でも
当時の庶民は

働かしてもらえる
食わせてもらえる

と有り難がっていた様だ

当時のセーフティーネット

当時は

年金
生活保護
保険
(セーフティーネット)

が存在しなかった為
路上には
物乞いも多く存在していた様子で

病気
怪我
高齢

で働けなくなった親の面倒を
子供がみるのは当たり前

親孝行は義務であり
その行為は称賛されていた

違った目線で見ると

親が子供の世話をするのは
自分が老いた時に助けてもらう為であり

子供は親の所有物であった
という側面も垣間見える

親によって
吉原(遊郭)に売り渡された娘も
親孝行をしたと称賛されていたし
親が咎められることは無かったようだ

更には
遊女になった自分の娘に
たかりに行く親もいた様で

子に泣きつく親が存在していた

こうして
ギリギリ社会が成り立っていた

現代は生活にゆとりもあるし
親に泣きつかないで良いように
仕事を頑張る子供達

って時代に変化してきている気がする

江戸の社会観

当時(江戸時代)には
ブラック企業なんて言葉は無く

将軍家、大名家の持つ
大企業(大商人)の元で雇ってもらう

という働き方が

農民の次男、三男の働き方だったようだ

長男が実家を継いで
残りは企業にやっとってもらうという形だ

一方で
農民が野外で凍死したり餓死している中

武士の中には優遇されている人達も存在していた

階級制度の名残

江戸時代の身分は
武士(士)と
庶民(農工商)にわかれていた

その頃の武士階級(幕臣、藩士)
は働かなくても部屋が
用意されている状態

戦もなかったので庶民よりも
自由度が高かった様だ

一方

平和になった為に
家禄を失った(解雇)された武士達は
仕事も家も無く大変だったようだ

錦絵・浮世絵という
「晴れ」を題材にしている芸術には描かれず
伝えられていないが

江戸の貧富の差はとても大きかったようで

路上には物乞いがたくさんいた

江戸の食生活

江戸の時代の
食生活は華やかだった
という人もいるが

実際は
食の安全・安心の水準は
低かったらしく

現代の人が同じ食事を食べると
腹痛・下痢・嘔吐になる程で

今でいう新興国へ旅行に行っても
『現地の生水を飲まないでください。』
と同じ状況下であり

当時の水道・井戸の水は
池や川の水を引いてきたもので

現代の
日本のように
衛生的で安全な
水道水ではなかった

ろ過も消毒もされていなかった為
ゴキブリやミミズ等の死骸
不純物も混じっていたかもしれない

井戸の近くには
汲み取り式の共同便所や
ゴミ捨て場があったりもしたようで

汚水が地下で混じってしまっていただろう

そんな水を日常的に飲んだり
使っていたりした

食材と保存方法

江戸の食生活は
旬の食材を食べていて

旬など気にしない現代人よりも
豊かな食生活をしていた

という人もいるが

冷凍庫・冷蔵庫etc.の
保存の方法がなく

温室栽培や
全国の流通網の発展もなかった為

実際は旬の食材しか食べれなかった
と解釈するのが正しいのかもしれない

一年を通して
どんな食材でも手に入れることが出来る

現代のような食生活の手段はなかった

その為、
実際のところ庶民の食生活はとても貧相で
質素だったと想像できる

魚も天候次第で漁に出れなくなり
手に入らず

保存手段も限られていた為
腐った魚も多く流通していた

現代のように保冷車はなく
氷もない為
人力で盤台や竹籠に入れて運んだりしていた

生で食べることは少なく
焼いたり煮たりして食べるのが
一般的で

刺身や寿司にして食べる人は
とても少数だったようで
食あたりする事もしばしばあったようだ

食の安全・安心の水準は
とても低かった

(晴)を描いた錦絵や浮世絵に描かれている
食事の風景を見て
当時の食生活は華やかだった

という人もいるが

それは
他人のリア充な
グルメの食べ歩きインスタを見て

毎日すごいものを食べている
と判断するのと同じ事であり

実際のところは
(褻)日々の食生活は貧相で質素であった

人々の日常

朝に1日分のご飯を炊き
味噌汁を飲み

昼と夕方には冷や飯を食べる

昼にはおかずが一品

夜は香のものでお茶漬け

塩気の強い少量のおかずで
お米を食べるスタイル

が庶民のご飯の食べ方であった

(一年に一度しか収穫できない野菜を漬物にして保存していた)

魚を食べるのも月に3回程度

現代に比べると
動物性のタンパク質を
ほとんど摂取できていない

普段は
武士も庶民も同じような
食生活をしていたが

武家は特別な日には
宴で豪華な食事もしていて
その様子が書物などに書き残されている

それは特別だったからと解釈できる

武家であったにしろ
特に庶民には

白米(銀シャリ)は贅沢品で

普段は
雑穀米を食べていた

農民であっても

作った米は
年貢でもっていかれ

残った米も換金しないと生活できず
白米を食べることは滅多になく

麦や雑穀を混ぜたり
芋や大根を入れて雑炊にしていた

食の偏り

その点
江戸に住む人達(裕福な人達)
(仕事のある人達)

武家、商家の奉公人、遊女(花魁)は

少ないおかずでも
毎日白米を食べるという

贅沢が出来た

ところが

皮肉なことに
大量に白米を食べることが
原因になり

脚気になっていた

(下半身が麻痺したようになり歩行不能になったり、
重症時は心臓障害で死に至る病気)

当時は
原因が不明で
「江戸わずらい」と呼ばれていたが

明治になり
米のぬかには含まれる
ビタミンB1の欠乏と判明した

おかず(副菜)が少なく
白米のみを毎日食べていた為
栄養が偏ってしまっていたようで

田舎の食生活に戻ると
玄米や雑穀米を食べることになり
症状が治っていた

日本人は米を食べて生きてきた民族だから

『絶対に毎日お米を食べるべきだ。』

という人もいるが

実際に国民全員が白米を食べれるようになったのは
1960年以降のようだ…

 

参考文献

「本当はブラックな江戸時代」

著者 永井 義男

発行者 河内 真人

発行所 朝日新聞出版

 

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